『フィッシュ・オン』(開高健)
釣りを通して世界を知る旅
釣りを通して世界を知り、地球の大きさを語る——一冊の本が人生を変えた。
開高健が亡くなったのは58歳、疾風怒濤の作家人生を、悠々と駆け抜けた人だった。
本書は1969年、アラスカからはじまる地球半周の釣りの記録だ。開高健はその時、39歳。中堅作家の真っただ中である。それ以前、ベトナム戦争の最前線へ赴き、生死をさまよう。その熾烈な体験を踏まえ、書き下ろした『輝ける闇』と『夏の闇』は開高文学の極致と言われる。本書はその二つの「闇」の間の時期、存在と生への疑問を埋めるべく、光あふれる自然回帰への旅だった。
アラスカの野生と向き合い、荒野の川でキングサーモンを釣り上げ、作家は生の歓びに震える。
「キャッチ&リリース」が衝撃的だった。釣った魚を再放流するのは、今でこそ一般的だが、当時は釣り人の間では酷評だった。人類は創世記の漁夫(すなどり)からはじまり、魚は人間が売るため、食べるために存在していたからだ。
少年時代のフナ釣りの経験しかなかった私は、釣りを通して世界を知り、地球の大きさを語るこの作品に深く心酔した。以来、取材の折にはパックロッド(折り畳み竿)とフライ(毛鉤)をバックにしのばせ、作家よろしく私も世界中の山河を釣り歩いた。
世界のどの国にも鱒はいた。欧米では「リリース」は通じたが、極東ロシアでは「馬鹿じゃないか」と罵られ、食糧難のアフリカでは「凍えるような視線」を浴びた。
国が違うと人間が異なるように、同じ魚でも性格が違い、独特のしぐさがあった。釣りを手がかりに各国の人間模様、独特の文化に触れたーー。(『地球鱒釣り紀行』(新潮社))
ひとり渓流に入り、清冽な水に立ちこみながら、竿を振る。遠い記憶の淵から糸を引き、過ぎ去った物語の断片をたぐる。静謐な時間は少年の心を取り戻すに十分だった。
かくして旅は古希を越した今でも続いている。
一冊の本が人生を変えたのだ。
2026.04.23